その人の居場所


 カウンターの内側に置かれた時計の針が、カチリと音を立てて進んだ。

 日付が変わった瞬間。こちらを伺っている視線に小さく合図すると、心得たボーイがボトルを持ってテーブルをまわり始める。俺も目の前の客に新しいグラスを出してシャンパンを注いだ。新しい年の始まり。いつもなら日付が変わる頃を閉店時刻とするうちの店も、この日だけは一時間だけ営業時間を延ばして、この瞬間を楽しむ。連れと話し込んでいた客が、「失礼します」とグラスとボトルを差し出すと、一瞬だけ「え?」という顔をし、腕時計を覗き込んで、思わずといった様子で破顔する。そうか、もう年が明けたんだなと言いながら、幸せそうな笑顔で「明けましておめでとう」とグラスを掲げる。それに対して、ボトルを掲げて軽く笑顔で答えながら、この瞬間を悪くないと思っている自分に気がつく。たかだか日付が変わって、ちょうど年が明けた。たったそれだけのことで、人はこんなにも他人に対して寛容に笑顔を向けることができる。それを不思議に思いながらも、笑顔を返している自分がいる。まるで何もかも、昨年の嫌な思い出を捨てることができると思っているかのように。そんなことは所詮錯覚に過ぎないのだけれど、そう思いたいのが人なのかもしれない。

 奇妙な活気に満ちた店内を見回す。何か指示があればとこちらを見ているボーイに、グラスの空いたテーブルを目立たぬように示す。慌てて足を運ぶボーイを眺めながら、この店にフロアマネージャーがいなくなってからもうどれくらいの時間が流れたのかをぼんやりと頭の片隅で考えていた。できるだけ目を配るようにはしているが、オーダーが立て込んだ時などは、他に数人のバーテンがいても目が行き届かないこともある。そのことで帰る客に不満な思いをさせているはずはないという自負はあるものの、カウンターの中のバーテンが店全体のみならず他店にまで目を配ることの無理さについてはずっと感じている。 
 年が明けて、もうしばらくすれば、うちの店にも新しいフロアマネージャーが入ることになる。―――考えてみれば、自分が最初に仕事を学んだ店は小さなところで、バーテンが二人だけだった。この街に来てからは、藤木さん以外のフロマネとはほとんど働いたことがない。この店に別の人間がフロマネとして赴任することに違和感があったから、なんとなくこの店の中は俺が見ることになっていた。けれど気がつけば、会社が大きくなるにしたがって、古参のバーテンやボーイは他の店の要として系列店に転出していて、藤木さんを知っているのはホステスの数人だけになっていた。結局のところ、新しい人間が来るということに一番拘りを覚えているのは自分なのかもしれない。カウンターの責任者とフロアの責任者が合わないようでは、店の運営自体に差し支える。しかし、今まで誰が臨時で来ても、つい藤木さんの仕事ぶりと重ねてみてしまう。一日二日ならともかく、ずっと一緒に働く人間に対してそれではまずいだろう。なんとかしないといけないとは自分でもわかっているのだが。やがて一人二人と客が席を立ち、「今年もよろしく」などと言いながら帰っていくのに笑顔で頭を下げながら、俺は心中溜息をついていた。

「とは言うものの………」

 自分の部屋の鍵を開けて、テレビからにぎやかな声が聞こえてくることに溜息をつく。

「別にプライベートでまで親睦を深めたいわけでもないんだけどなあ……」

 ぶつぶつと呟いた俺の声は聞こえなかったのか、下村は右手にビールの缶をつかんだまま「おう、お疲れ」と言った。テレビでは真っ青な海辺でウェディングドレスらしきものを箱から取り出した外人の女たちが歓声をあげている。何見てるんだこいつ。

「何見てんだよ」
「映画。おまえんちなんにもねぇんだもん。年末年始じゃろくな番組もやってないし」

 がらんとした部屋の中には、ろくな雑誌も本もなく、ヒマ潰しといえば、かろうじて小さなテレビとビデオが揃っているくらいだ。それも部屋の中に俺だけしかいないと、たいして使うこともない。たまたま安かったから揃えただけ。

「書店に行ってみたけど、左手ないと文庫本読むのも大変だし」
 こう、な。と左手首で押さえないとぱたんと閉まってしまう文庫本を示してみせる姿に、なるほど本が小さい分だけ逆に不便なものなのだとコートを脱ぎながら妙な感心をしたりしていると「だからビデオレンタル行ってきたんだけど」とテレビを示す。確かにビデオデッキの周囲には、銀色のレンタルビデオのケースが転がっていた。画面では、女たちがまだ結婚式の支度を整えている。
「これ、おまえが選んだわけ?」
「ああ、なんでもよかったんだけど…あんまり撃ち合うアクションものなんかを観たい気分じゃなかったし」
 なんでもいいかなと思ってさ。そういって呟く下村は、テレビの画面を観ているような観ていないような、どっちでもよさそうな顔をしていた。なんでこんなものを見ているんだと不審そうな顔をしていると思ったのか、ぽつりと口を開く。この結婚式、新婦の方が不治の病なんだ。それを知った恋人の男がプロポーズして、なにがなんでも明後日に結婚式をすると言い出す。事情を知った友達がみんなでせいっぱい手作りの結婚式をしてやるんだけど―――小さな声で淡々と言う声に、ますます不審の念はつのった。元婚約者の女が死んだばかりで、なんでこいつはこんなものを観てるんだろう。そう思う俺をよそに、半分独り言のように、下村は言う。

 ―――俺たちもあんなふうに一生懸命だったら、また違う結末があったのかな。

 画面では、新郎らしき男が、教会で神父のような格好をした男にくってかかっている。なんと言えばいいのか、俺が選ぶ言葉に困ったような顔をしているのに気づいたのか、小さく下村が笑った。ますます反応に困る。

「あ、えーと下村―――」
「悪ぃ。別におまえに気を遣わせるつもりはなかったんだ。俺はもう気にしてないよ」

 そう言う下村は、その言葉のとおり、虚勢ではなく、穏やかな顔をしている。左手のない日常生活に慣れるまでという条件でうちに転がり込んでいる居候は、つい先日までサラリーマンとして働いていたというのが不思議なくらいいろんなものを失くしたはずなのに、さっぱりとした顔つきで日々を暮らしている。あまりに平然としているので、こちらの方が戸惑うくらいだ。

「悪い」

 本当になんでもないような顔をする下村に、ほんの少しだけ腹が立った。なんでそうやって笑っていられる?俺は―――と言いかけて、言葉を飲みこんだ。別に帰宅するなりこんな言い合いがしたかったわけじゃないのに。大きく溜息をついて、俺は台所から一升瓶とコップをふたつ持ってきた。

「飲むだろ」
「いきなり一升瓶からかよ―――仕事の割におおざっぱな奴」
「別に男が自宅で飲むのにわざわざ移し変える必要もないだろ」
「そりゃそうだけど」

 さすがに片手だけだと座ったままで一升瓶から注ぐのは辛そうなので、俺がコップに注いでやった。なみなみと注いだコップをどちらともなく飲み始める。さっき腹に据えかねたまま、むっとして黙って酒を飲んでいる俺に、下村は「まりこはいなくなったけど」と相変わらずのマイペースで続ける。

「俺の心の中に、まりこの居場所はあるよ―――沖田さんも。叶さんの分も」

 だから俺が今更悔やんでどうなることでもないだろ?後悔したところでまりこは帰ってこないし、あいつの選択に俺が口出しできるわけでもないしさ。そう言った下村の顔は、なくした左手と一緒に何もかもを呑み込んでしまったような、落ち着いた顔だった。いまだにいなくなった人のことを内心引きずっている俺を差し置いて、一足先に行ってしまったような。それが腹立たしいような、悔しいような気持ちでいたら、突然、話は違うところに落ちてきた。

 だから、おまえのなかにも、俺の知らない人がいてもいいんじゃないのか?前任者、藤木さんて人だろ。俺は俺だし、その人はその人だ。俺は俺なりに仕事のやり方を見つける―――俺のやり方が間違っていれば、坂井が指摘する。で、改善すればいい。それだけのことだろう?

 気にしてたんじゃないのか。俺がフロアマネージャーに入ること。見透かされてたのかと思うと、恥ずかしいような、その癖「わかってて黙ってたのか」と言いたいような、いろんな気分がごっちゃになってこみあげてきた。一気に喋ると、つい怒鳴ってしまいそうで。とりあえず一口飲んで頭を冷やしてから(台所に置きっぱなしの日本酒はいい具合に冷えていた)、口を開いた。

「気づいてたのかよ」
「おまえより会社生活が長かったからな。会社ってのは異動が多いから、しょっちゅう知らないやつと仕事するし」
「俺だってしょっちゅう知らないやつが入ってくるよ」
「でもおまえの場合は、ホステスとか自分より下のバーテンとかボーイとかだろ」
「そりゃそうだけど」
「会社だと上の人間が代わるのもしょっちゅうだったから。おまえみたいな顔してるの、よく見たし」

 だからすぐわかったんだよとなんでもない顔する相手が、どんな顔してサラリーマン生活をしていたのか、全然想像できない。そもそもがバー以外では働いたことない自分には、朝出勤するという会社生活というものが想像もつかないのだが。それでも、こうやって他人の口から聞いてみて、自分がいらいらしていた理由がはっきりすると、なんだか突然にすとんと腑に落ちたような気がした。そうか、直接ぶつけてみりゃ良かったんだな。わだかまりが少し解けたような気持ちになって口に運んだ酒は、不思議にさらりとした味に思えた。

 またしばらくの沈黙のうち(海の色が日本とは違う綺麗な青で、俺もなんとなく映画を目で追いながら)飲んでいると、また唐突に下村が半分ひとりごとのように呟いた。
 
「あとに残る者の心の中に生きることが出来れば、死はないんだってさ」
「誰がそんなこと言ったんだよ」
「昔の詩人」
「おまえ、ほんとに詩好きだな」
「時間潰すのにちょうどいいんだよ。筋なんか何もなくて、たまにいいことが書いてある」
「その文章も『いいこと』なわけ?」
「そうなんじゃねぇの?俺が思い出したくらいだから」
「ふーん」

 下村のコップが空になると、注いでやり、ついでに自分の分も継ぎ足す。そうやってだらだらと飲んでいるうちに、瓶の中身は半分以下になった。まだつけっぱなしのテレビの画面では、男と女―――不治の病だというのを感じさせない晴れやかな笑顔―――が笑顔で祝福を受けている。紙吹雪の中を笑顔で歩いてる二人の姿をぼんやりと見ているうちに、「あ」とまた下村が呟いた。

「忘れてた」
「今度はなんだよ」
「年があけただろ。まだ言ってなかった」

―――明けましておめでとう。今年もよろしく。

【Fin】
20030103


このサイトもそろそろ一周年だなーということで、年明けから慌てて原稿書いてみました。
うちのサイトでは需要の低そうな(笑)坂井と下村です(7巻のあとね)。
新しい人と一緒に仕事するのって緊張しませんか?という話でした。
(下村は「周囲が反応に困る話を平然とする人」、
坂井は「それにどう反応していいか困る常識人」というのが私のイメージなので…)

「To live in hearts we leaved behind, is not to die.」という詩は
19世紀英国のトーマス・キャンベルという人の「Hallowed Ground」の一節、だそうです(孫引き)。
映画は『ラスト・ウェディング』というオーストラリアの映画です。
90年代後半の映画なので、この時期に観られたはずはないのですが、
私の好きな映画なので使ってみました。
海の青色が綺麗ないい映画です。
随分前に観たっきりなので記憶はちと曖昧ですが(<オイ)。

今年もどうぞよろしく♪